終 章

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 我がアストラン共和国の始祖、ケツァルコアトル一世の手記はここでとぎれている。一世はこのあと、まさに欺瞞とまやかしの風塵のなかにその身を投じて、そのまっただなかを駆けぬけられた。
 現在は西暦一九六四年で、国家元首はケツァルコアトル十七世である。世界でも唯一の世襲の大統領で、一世以来、その血脈は連綿としてうけつがれている。わたしは共和国の教育省長官で、イツクァウツィンの血筋につながる者である。一世が、イツクァウツィンの子息の唯一の生き残りであったトラマヨカトルを瀕死の病からすくってくれたおかげで、いまのわたしがある。
 今年は我がアストランにとって、きわめて記念すべき年だった。首都テハスにおいてオリンピコ(オリンピック)が開催されたのだ。インディオパワーをまざまざと見せつけてやった。金メダル三、銀メダル五、銅メダル八という成績だった。これを決して多いとは言わない者には、そういわせておけばよい。三つの金メダルのうちの一つを槍投げ種目で獲得したのは、一世とは仲のよかったあのマリア・デ・エストラーダの子孫の中年女性である。
 さて、これから語られるのは、一世がメシカの王モクテスマの遺志をひきつぎ、メシカの遺民五百有余名をひきいてメシカ族祖霊発祥の地であるアストランをめざしてサン・ファン・デ・ウルアを船出したあの歴史的な年より数えて、四百と三十五年を経るにいたるまでの、アストラン国のざっとしたヒストリーである。正規の年代記にもとづいて、わたしなりの個人的な思いもいくらかからめて八年ほど前、そう一九五六年に書きとめておいたいわば覚え書きといったようなものである。国境を越えより多くの人々に触れてもらって一世の偉勲をあまねく知ってもらい、もって我がアストラン建国の故事来歴を理解してもらいたい一心で、人名、地名など一部を除いてすべて英語で記述してある。また同じ理由から、一世の手記についても英語に翻訳しておいた。

 一世が、メシカの遺民と共に伝説の地アストランをめざしてサン・ファン・デ・ウルアを船出したのは、一五二一年九月二十七日のことだった。メヒコ市にいたエスパーニャ人は、この挙に対して猛烈に反発した。彼らはメシカ人を一人前の市民とは考えず、ほとんどただでこき使える労働力としてのみとらえていた。その貴重な労働力がもちさられることに抵抗したのである。それでなくても、エスパーニャ人がもち込んだ天然痘などの疫病や、戦乱、飢餓などによってメシカ人の数は激減していた。一世は、これらのエスパーニャ人による反発を懐柔するべく、十万ペソの補償金の支払いをよぎなくされた。新天地へ向けて一世と同行を望むメシカ人はゆうに千人をこえたが、その数を運ぶ船団の手配がその時点ではとてもととのわず、残りの者は後次の船を待つことになった。
 当時のヌエバ・エスパーニャにいたエスパーニャ人たちは、入植という言葉は使っていたものの、彼らの入植とは金銀探しのそれであって、鋤、鍬、斧、つるはしをたずさえて作物の種子と家畜をともない、永住の地を求めるというのではなかった。一世がめざしたのはまさに後者のそれであって、こうした本来の意味での入植へ向かう集団は、当時のヌエバ・エスパーニャにあっては一世のそれが初めてだった。
 エスパーニャ人のなかにも、一世に同行を申しでる者がかなりあった。彼らは征服戦争に疲れはてた人々だった。しかしコルテスは、彼らが同行することにはあまりいい顔をしなかった。彼にしてみれば、人手はいくらあっても多すぎるということはなかったからだ。それほどヌエバ・エスパーニャは広大だった。その広大な大地の征服と平定に野心を燃やす彼にとって、一世に同行したいという者が続出することは大きな痛手となるのだった。
 しかし、新天地にエスパーニャ人は必要だった。現状では、エスパーニャ人は一世ただ一人である。エスパーニャ国王の庇護下に置かれることによって、当のエスパーニャ人からの侵略を回避しようとするのであれば、それ相応の数のエスパーニャ人が居住するという存在証明がぜひ必要だった。それに、エスパーニャの農工技術を摂取するうえでも彼らは役に立つはずだった。
 それなら、と一世はコルテスにくいさがった。
「同行を希望するエスパーニャ人のなかから、コルテス殿がじきじきに人選をされたらいかがです」
 コルテスは、しばし考えこんでからこう言ったという。
「それならいいかもしれん。そのかわり、年寄とか、不具の者とか、盛りをすぎた女とか、はしにも棒にもかからんたわけとか、そんな者ばかりになってしまうぞ」
「かまいませんとも」
 こうして、一世とコルテスとの談合はなった。コルテスはまた、国王のための監察官と神父の同行を義務づけた。監察官は、国王に納めるべき五分の一税の監視と管理を行う者で、これには元ナルバエス軍の隊員の一人であった法学士あがりの男があてられた。
 移住に欠かすことのできない馬、牛、豚、羊などの家畜や、小麦、大麦、カブ、綿などの種子、鋤、鍬、斧、つるはし、釘などの農工具、狩猟用の銃や弓などは、サン・ファン・デ・ウルアに到来していた商人たちから買いいれた。そのころには、ヌエバ・エスパーニャという新開地が求めるさまざまな物資を高値で売りさばかんとたくらむ商人らが、続々と海岸に押しかけてきていた。また、この地特産のトウモロコシ、カボチャ、トウガラシ、トマト、フリホール豆、アマランサス、マゲイ、パパイア、アボガドなどの栽培と、七面鳥、ガチョウ、アヒル、ウズラ、ウサギ、食用犬などの飼育などに必要な諸手配と準備は、移住するメシカ人が自らの責任において行った。
 こうして、完全とはいかないまでも移住の準備をととのえ終えた船団は、陸づたいに北方へと向かった。北の彼方に何があるのかは、当時はまだ誰も知らなかった。エスパーニャ人の目は南へだけそそがれていた。
 航海は順調だった。しかし、一世はどこに上陸すべきかというあてはもっていなかった。神意というものがあるなら、それを待つほかなかった。出航して十二日目、激しい嵐が襲った。船団は陸側に吹きつけられ、その陸の沖合いで座礁した。嵐がすぎるのを待って、人々は小舟に乗り移り浜へ向かった。浜に上陸した彼らは、そこが本当の陸地ではないことを見いだした。
 そこはとほうもなく細長い島だった。そのような島が延々とつらなって、本当の陸地とのあいだにラグーナ(潟)を形成していた。彼らはそのラグーナを漕ぎ渡った。着いたところはいくつもの沼がむらがる湿地帯で、人が住んでいるようにはとても思えなかった。一世はこれを神意とうけとめた。こここそが、アストランなのだと。
 高温多湿の沼地は、蚊やゴキブリの天国で、環境は劣悪きわまりなかった。沼地をぬけでたところからは原生林がはじまっていた。人々は原生林に分けいり、樹木を伐採して町づくりを開始した。なかなか人を寄せつけようとはしない、このうっそうとした原始そのままの樹海を切りひらいて、ひどくお粗末な丸太小屋を建設し、その発展の最初の第一歩を踏みだしたこの原始の町こそ、のちのアストランの首都テハスなのだ。テハスとは、このあたりの先住民インディオの言葉で「友」を意味し、メヒコがメキシコであると同様、英語ではテキサスと発音する。人々はこの言葉にたがうことなく先住民とはよき友となった。

 十四年後の一五三五年、ヌエバ・エスパーニャに副王制がしかれた。この年は、ずっと南のティエラ・フィルメ(現パナマ)――一世がインディアスへの第一歩をしるされたのはまさにこの地であった――よりもさらに南の太平洋側で、メシカをもしのぐ巨大なインディオの大帝国(インカ)がフランシスコ・ピサロらにより征服された年でもあった。メシカを征服したコルテスの遠征隊のなかには、このピサロの血筋につながる者がいたという。
 副王というのは、王の代理として植民地を統治する最高権力者で、アウディエンシア(植民地統治委員会)という組織が諮問機関としてその任務を補佐する。副王もアウディエンシアの役人も、共に本国から派遣されてくる。メシカ征服の翌年、一五二二年に念願かなってヌエバ・エスパーニャのアデランタード兼総督の地位についたあのコルテスも、このころには副王とアウディエンシアによってその地位を略取され、南海のアデランタードなどというわけのわからない役職に追いやられていた。稀代の英雄も本国の官僚統制にのみ込まれてしまえば、こんなありさまとなってしまう。寝て待っていただけの果報を、その功労者から奪いとってしまういつもながらの本国のやり口だった。
 そんなコルテスではあったが、メヒコ市の近郊に良質な領地を下賜されて爵位(侯爵)にも叙される一方、事業に向けた才覚も存分に発揮して富の蓄積にもおこたりはなく、世俗的な成功は十分におさめていた。コルテスはやはり、あのコルテスではあった。
 また、一世と共に通訳として活躍したあの美しいマリーナは、一五二三年にコルテスの嫡子を産み、その二年後にはコルテスのホンジュラス遠征に同行して、その途上においてコルテス配下のファン・ハラミリョという兵士と結婚した(させられた)。思えば一五一九年三月のコルテスとの運命の出会い以来、六年もの長きにわたって女の身一つで過酷な征途に随伴していた彼女の肉体はもはやぼろぼろとなっていて、結婚後二年も待たずに病没したという。

 さて、ヌエバ・エスパーニャに副王制のしかれたこの頃には、メシカの遺民らが一世のもとで開拓した新開地の規模は相当な規模に達していた。やがてこの領地は、だれ言うとなくアストラン辺境領と呼称されるようになった。
 そして数年後、このアストラン辺境領はついにはアストラン総督領に格上げされ、当時四十六歳であった一世は初代総督に任命された。ヌエバ・エスパーニャの正式なる行政区分としてのアストランがここに誕生したわけである。
 賢明なる一世は、金銀宝石のたぐいはいっさい産出しないアストランを、もっぱら農耕と牧畜による殖産の道へとみちびかれていった。一世は、アストランに居住するエスパーニャ人に対してエンコミエンダ――インディオをただでこき使う権利――を認めなかった。アストランにおいては、エスパーニャ人もインディオもおのれ自ら開墾した土地はおのれ自らの責任において管理し、税を納めた。エスパーニャ王室は、インディオの無償労働のうえに成り立つエンコミエンダ制を快くは思っていなかったので、一世のこのような施政のやり方は大筋で支持した。王室は、税がとどこおりなく国庫に納入され、また、エンコミエンダ制にあぐらをかく個人の特権層が小貴族化するおそれのないことをよしとしていたから、一世の統治法はおおむね国策にそっていたのである。
 一世の統治下にある住民の数は増えつづけて、いつしか三千人ちかくに達していた。そのうちの三分の二はインディオが占めていた。残りの三分の一はエスパーニャ人だが、彼らとインディオとの混血であるメスティーソも続々と産声をあげていた。ちなみにアストランにおける最初のメスティーソは、一世とキラストリのあいだにもうけられたお子たちである。住民の大多数を占めるインディオには、メヒコ市をはじめ各地から移住してきたメシカ人はもとより、先住民のインディオも大勢ふくまれていた。
 先住民との融和は、この地に移住してきて以来のもっとも大きな課題だった。先住民はときには協力的であり、ときには敵対して新来者に襲いかかってきた。後者の事態にたちいたるのはちょっとした誤解が因であることが多く、そうでない場合には明らかに新来者の側に落ち度があった。
 こうしたいさかいのほとんどを処理したのは、一世のかけがいのない友であるチャン・プーだった。チャン・プーは、先住民の族長の心をまたたくまにとらえ、兄弟の契りまでかわした。先住民の言葉もすぐにおぼえて、続発する紛争を見事にまるめこんでしまった。
 一世は、先住民に過大な迷惑をかけた者に対しては断固たる処置をとった。絞首刑に処したのである。もっとも、綱が切っておとされる寸前、一世の妻であるキラストリがとめにはいるのがつねだった。おかげで、絞首刑は処刑の儀式化といったようなものになってしまったが、それでも違反を犯す者の数は激減した。キラストリは「絞首台のマリア」と呼ばれるようになった。
 こうした努力のかいもあって、しだいに心をゆるしてきた先住民らは、新来者の協力も得てより組織化された農耕と牧畜をおぼえ、定住化への道を歩むようになった。
 一世が何よりも手を焼いたのは宗教上の問題だった。続々とアストランにやってくる神父たち、多くはフランシスコ会の修道士たちであったが、彼らがインディオに改宗をせまったのである。ひとは先祖伝来の宗教や習俗を否定されることをとてもきらう。むりやり改宗をせまれば紛争の火種となるだけだ。カトリックの宗主国を自認するエスパーニャにとって、クリスト教を広めることは国策そのものといっていいのだが、本国との軋轢は極力さけたい一世にとっては頭の痛い問題だった。
 この難局に活躍したのがチャン・プーの妻のカナ・ポーだった。彼女は神なき神の世界をおそれなかった。彼女はほんの形式的にではあれ、故郷のセンポアラにおいてオルメド神父から洗礼を受け、カタリーナという洗礼名までさずけられていた。彼女は、カトリックの秘跡もすすんで受けて牧師となり、修道士らと共に伝道に歩いた。インディオであるカナ・ポーのこうした態度は、修道士たちにとっては大いに喜ばしいことだった。当時の修道士たちは、インディオ改宗の最良の手段はインディオそれ自身であろうと考えていた。堕落しきったローマ教会――この世に地獄があるのなら、ローマはそれの上にある――に背を向けた彼らは、原始クリスト教の純粋さを、この地ならば回復できるであろうと大いに期待をかけていたのである。
 カナ・ポーがインディオに説教するのを、修道士たちははらはらして見まもった。彼女が何を話しているのかは、現地の言葉を知らない彼らにはまったくわからなかった。彼女はインディオに対して、おのれの神を捨てよとはいっさい言わなかった。彼らの神々の座にクリストとマリアを加えてほしいと請うただけだった。そして、そのご利益をぬかりなくならべたてた。いわく、豊饒は約束される、病はいやされる、太陽は永劫にその命を保証される、子宝はさずかる・・・などなど。しかし、その条件として、伝来の神々の祭壇に十字架を加え、マリアの像を安置すべきことを言いそえた。多神教になれたインディオにとって、伝来の神々のなかに新たな神をつけ加えることについてはそれほど抵抗はないはずだった。
 問題は人間の生贄だった。メシカ人だけでなく、先住民の一部にもその風習が見られた。カナ・ポーは、新しい神は人間の生贄を激しく憎み、もしそれが行われるのなら、白い者らは血に飢えた悪鬼と変じ、あなた方を皆殺しにするであろうとおどした。メシカ人は白い者たちの恐ろしさは身をもって知っていたし、先住民は先住民で初めてみる白い者たちを半人半神のごときものと見なしていたから、彼女のこの威嚇はかなり効果を発揮し、人間の生贄は目に見えて減少していった。また、インディアスにはこれまで存在しなかった小麦などの作物や、牛や豚などの家畜が導入されたことなどによって飢饉へのおそれは縮小されたし、少なくともインディオよりは進んだエスパーニャの医療が行われることによって、簡単で見えすいた病や怪我は治癒をみた。それ相応のご利益があったのである。こうしたこともあって、彼女の伝道はおおむねうまくいって、インディオ改宗の実はあがっていった。修道士らは彼女のことを「完璧なる不完全な伝道者」と呼んだが、その功績にはおおいに満足した。
 つらいこともあった。エスパーニャ人のもち込んだ天然痘や、悪性の風邪、腹の病などの疫病によって多くの先住民が死んだのである。病が癒えるというご利益は完全なる嘘っぱちだった。すくってやった人間よりも、殺してしまった人間のほうが圧倒的に多かったのだ。カナ・ポーはしかし、目を真っ赤に泣きはらしながらもこの偽善と欺瞞にたえた。
 イツクァウツィンとその妻マヤウェルは、メシカ人の心のよりどころとなった。見知らぬ土地へやってきて見知らぬ出来事にためらい、さらにクリスト教への改宗までさせられた彼らのせつない心をなぐさめた。メシカの人々は、老若男女をとわず夫婦のところへ相談事をもち込んだ。夫婦は、その一つ一つに丁寧に耳をかたむけ、適切な助言を与え、裁きが必要なときはそれを行った。いってみれば夫婦は、メシカの人々の長老的な存在となっていったのである。
 アストランにやってくるエスパーニャ人の数は年々増えつづけていったが、アストランにとどまる者は三分の一にも満たなかった。到来者の大多数は黄金に飢えた亡者どもだった。彼らは、トウモロコシ畑をつまらなそうにながめてはそこを通りすぎ、牛の放牧場では誰はかることなく牧童らを野卑たっぷりに揶揄しまくり、また一世に会っても、礼の挨拶をするでもなく奥地へと向かった。彼らの多くは、行く先々で先住民を荷物運びのために徴発したり、黄金のありかを言わせるためにひどくむごい拷問を加え、抵抗にあえば容赦なく殺したりしたが、黄金が見つかったというめでたい話はついぞ聞いたためしがなかった。
 一五四七年、悲しい報せがとどいた。マヤの地がエスパーニャ人に征服されたというのだ。当時五十八歳であられた一世の嘆きと悲しみは、目もあてられないくらいだった。チャン・プー老とてそれは同じだった。チャン・プー老にとってマヤはかけがいのないふるさとであり、一世にとってもそこは第二の故郷だった。
 マヤを滅ぼしたアデランタードはモンテホだった。この男は、かつてエスパーニャ宮廷において、コルテスのアデランタード任命に尽力したフランシスコ・デ・モンテホの息子だった。彼らは、親子二代にわたってマヤの征服をおしすすめ、その地を略取し、かすかに息づいていたマヤ文明の可憐な花をももぎとってしまったのだ。チェトウマルにいるはずのハラルやその父親のヌシ・パンヤオ、それに黒マントの大神官はどうしているのだろう。そう思うと、一世もチャン・プー老もいてもたってもいられない心地であったことだろう。
 聞くところによると、去年の十一月に、チェトウマルをふくむマヤの諸国が連合を組んで、モンテホ軍に最後の反撃をこころみたというが、今年の三月にはそのいっせい蜂起も制圧され、マヤ人の多くはグァテマラのペデン地方の奥深くに逃亡したという。その逃亡者の一群に、ハラルとヌシ・パンヤオ、そして黒マントの大神官がいてくれたらと願うばかりである。
 グァテマラといえば、メシカ陥落の前年にテノチティトランにて挙行されたトシュカトル祭において、何百にもおよぶ無防備な踊り手戦士らの大虐殺におよんだ犯行の首謀者、メシカ人からは太陽の子とあがめられたあのペドロ・デ・アルバラードによって征服された地域である。コンキスタドーレスよ、呪われてあれ!

 我がアストランがメヒコ国より独立し、アストラン王国となったのは一八二三年のことだった。ケツァルコアトル一世の悲願が、三百年を待ったのちにやっと果たされたのだ。
 メヒコ国の前身はヌエバ・エスパーニャであるが、二年前(一八二一年)にエスパーニャからの独立をはたしてメヒコ国となっていた。ヌエバ・エスパーニャという領名は地上から消えたたのである。独立運動の立て役者であるアウグスティン・デ・イトゥルビデは皇帝に選任され、ヌエバ・エスパーニャ全土の領有を宣言した。
 当時におけるメヒコ国(旧ヌエバ・エスパーニャ)の領土は、かつてのメシカ帝国の版図に加え、我がアストランやヌエボ・メヒコ(のちのアメリカ領ニューメキシコ州)、カリフォルニア(カリフォルニア州をふくむのちのアメリカ領南西部のほぼ全州)、カリブ海諸島の一部、中米(パナマをのぞく)、フィリピンなども領有する広大な領域を占めるにいたっていた。

1821年当時のメヒコ国(旧ヌエバ・エスパーニャ)の領土
(赤色部分はのちに米国領となった)
大和民族の団結|日本人の誇りを取り戻せ
より引用


 帝位についたイトゥルビデはしかし、自由派と保守派のあいまみえるぐちゃぐちゃな国内を統治しきれず、早くも八ヶ月後には皇帝の座を追われて国内はいっそうぐちゃぐちゃになった。そのどさくさにまぎれて、我がアストランは独立を宣言したのだ。ほぼ同時期に、中米諸州(グァテマラ、サン・サルバドル(現エル・サルバドル)、ホンジュラス、ニカラグァ、コスタ・リカの五州)も中米連邦共和国としてメヒコからの独立をはたした。
 アストランは、独立と共に共和制に移行し、それまでは知事であったケツァルコアトル十世が大統領に選任された。アストランがまだメヒコ領であり、そのメヒコがまだヌエバ・エスパーニャとしてエスパーニャの領土であったころからずっと、アストランの統治は例外的にケツァルコアトル一族の世襲にゆだねられていた。これはきわめて異例なことではあったけれど、ケツァルコアトル一世以来よりの公明正大な行政施策が王室に高く評価され、ケツァルコアトル一族の統治権の世襲のみならず、その行政法の世襲をも王室が望んだ結果だった。
 その行政法の一端をいえば、行政の末端には信頼のおけるインディオ系のアストラン人を起用して、末端において生じやすい職権乱用とか不正利得とかの悪弊を徹底的に排除し、その悪しき慣行の横行を阻止したことがあげられる。エスパーニャ人が行政をぎゅうじる他の地域ではその悪弊がまかりとおっていて、それを規制すべく中央主導をさらに強めた監察制度(インテンデンシア)がヌエバ・エスパーニャ一帯に導入されたほどである。
 アストランの行政官のほとんどは、地元のアストラン人によって占められたが、その彼らに支払われるべき俸給は、本国に代わってアストラン国自身が負担したことで王室をさらに喜ばせた。破産宣言を数度もくりかえすほどに国庫に余裕のない王室にしてみれば、願ったりかなったりの処置だったのである。
 ケツァルコアトル一世以来、王室との関係にはかくのごとく神経をくだいてきたアストランではあったが、独立を宣言して自主憲法を制定、司法の独立のうえに立法議会と責任政府とを樹立させて国の自治体制を確立させてしまえば、そうした王室への気づかいも不要となる。とはいえ、これまでつちかってきた王室との固いきずなはそのまま継続されるべきであると、アストラン初代大統領ケツァルコアトル十世は申された。アストランは、信義をもって世に聞こうる国たらんと。
 旧宗主国のメヒコは、当然ながらアストランの独立宣言に対して横やりをいれてきた。アストランは独立したとはいえ、三百年にもわたるメヒコとの宗藩関係でつちかわれてきた人的、経済的、軍事的な互恵関係はそうおいそれとはたちきることは困難で、メヒコにアストランの独立をのむ意志がない場合はその互恵関係に齟齬が生じて両国に大きな不利益をもたらす。よって、メヒコにはぜがひでもアストランの独立を認めさせねばならなかった。それも友好裏に。
 このとき活躍したのが、ケツァルコアトル十世のふところ刀、ファン・チャン・カヨである。彼はケツァルコアトル一世のよき相棒であったチャン・プーの子孫で、名前にファンの字がつくことからもわかるようにメスティーソである。この家系は代々、すぐれた交渉家を輩出してきた。
 チャン・カヨは、アストランが独立宣言を発するまさにその直前、イトゥルビデが皇帝の座を追われたあとのメヒコにおもむいた。彼はどんな手品をつかったのであろう、アストランが独立を遠慮がちに宣言するや、それを知って猛り狂う臨時政府の有力者連を巧妙に手なずけ、思いどおりにまるめこんでしまった。彼らは独立に対して横やりをいれはしたものの、それ以上の軍事的、経済的な強行手段には訴えてこなかった。おのれの膝もとすら満足に統治しえない彼らに、北の辺境アストランまで支配におよぼうなどどだいむりな相談なのだ。
 チャン・カヨはそのままメヒコに十年ちかく常駐し、猫の目のように変わる時々の為政者にこまめに接近して、彼らの耳もとで何ごとかをささやきつづけた。最後にはカウディーリョ(政治ボス)の大物サンタ・アナ将軍をも篭絡して二人は無二の親友となった。
 ことここにいたるまでには確かに大金が動き、ときには求めに応じて援兵をさし向けたり、有力な利権をも贈呈するようなはめとはなったが、それは真の独立を勝ちとるための先のばしできない代償だった。一八三三年四月、メヒコ政府はアストランの独立を正式かつ友好裏のうちに承認した。
 お隣、というかアストランに北と東で接しているめっぽうでかい国、アメリカ合衆国は、アストランの独立をなかなか認めようとはしなかった。北側で接するのはのちにオクラホマと呼ばれる地域、東側で接するのはルイジアナと呼ばれる州である。ちなみにアストランの南側はメヒコ湾に、西側はメヒコ領ヌエボ・メヒコ(のちのアメリカ領ニューメキシコ州とその周辺を含む広大な地域)に接している。アメリカは、我がアストランと、メヒコ領ヌエボ・メヒコおよびメヒコ領カリフォルニア(のちのアメリカ領カリフォルニア州、ネバダ州、ユタ州、アリゾナ州ほか)の領有をねらっていた。
 当時のアストランは、先住民インディオと黒人逃亡奴隷の処遇をめぐり、アメリカ合衆国とは確執をくり返していた。アメリカ人の迫害を逃れてアストランに流入してくる先住民と逃亡奴隷はあとをたたず、それに対してアメリカ側へは再三抗議を申しいれていた。そうはしながらも、インディオの国アストランはそうした難民たちの多くを受けいれていたのである。しかし、それにも限度があった。自分の国の不始末は、自分の国で解決してもらわねばならない。アメリカ側は平身低頭して、そのようにするとは約束するものの、現実には手をつかねていた。あるいは、そのふりをしていた。
 アメリカは、この確執がはじけて武力抗争が勃発するのを望んでいたようである。それを口実に我がアストランに宣戦を布告し、武力をもって制圧して占領し、国土をむりやり割譲させようともくろんでいたと思われる。しかし、ケツァルコアトル十世はその手のうちをよみきっていた。紛争が起きても、アメリカのおかぶをうばって手をつかねるふりをした。それをいいことに、アメリカ人はアストラン領内へ入り込み、土地を不法に占拠した。
 十世は、入り込んだアメリカ人たちを正規の入植者として扱った。また、彼らが占拠した土地がすでに別の者の権利にゆだねられている場合には、アメリカ人入植者を説得して、まだ開拓の手のおよんでいないフロンティアに移住させた。この施策は、アメリカ側の挑発を無意味なものにした。
 その一方で、チャン・カヨはヨーロッパを駆けずりまわっていた。その成果があらわれだして、まずエスパーニャが、次いでイギリスとフランスがアストランの独立を承認した。当時めきめきと台頭していたアメリカが、エスパーニャにかわって中南米に覇をとなえるのを、ヨーロッパ列強がおそれていたことが背景にあった。一八三五年十一月、アメリカはしぶしぶアストランの独立を認めた。
 アストランに入植してくる外国人は、アメリカ人だけにとどまらず、ドイツ人、スイス人、イギリス人、中国人などもいた。アストランは彼らを受けいれたが、山師的な人間は長くはいつかず国外に去っていった。アストランでは奴隷制は認めないので、黒人奴隷の労働力搾取のうえに成り立つ大規模プランテーションを夢見る者は、あてがはずれてしまうのだ。
 アストランに来る者は、誰もが一様に驚く。そこにあるのは、インディオ、白人、黒人、東洋人、さらにそれらの混血の人々が完璧に共存し、混交している姿だった。心ある者は感動すらおぼえた。また、この国にいつくと欲というものがしだいにうすれていった。欲の深い者にはすこぶる居心地のわるいところだった。というより、そういう者らには別の人生を見る目を開かせた。大金持はあまりいないかわりに、極貧にあえぐ者もいない、それがアストランという国だった。
 一八三八年、アメリカのインディオ排斥政策の施行はそのピークを迎えた。アメリカは八年前の一八三〇年に、東部に居住するインディオをミシシッピー川以西に移住させるインディオ強制移住法を成立させていた。それにもとづいて、まず三一年から三三年にかけて、南部に住んでいたチョクトー族をアストランの北に接する地域(のちのオクラホマ)に追いやった。チョクトー族の一団が、ミシシッピー川を渡らされているのを目にしたあるフランス人はこう述べている。
「インディオは家族をともなっており、病人や負傷者、赤ん坊、いまにも死にそうな老人も一緒だった。そのうしろには三、四千人の兵士がつづき、流浪の民を追いたてていた。兵士らのうしろについて西部をめざしていたのは白人の開拓者らで、彼らは森をきりひらき、動物を追いはらい、水路を探検して、自らの文明が荒れ野をふみこえて勝利の前進をしていくのに充分な準備をととのえていた」
 そのほかのインディオ諸部族も次々と移住させられ、三八年には、最後まで移住をこばんでいたチェロキー族――彼らは西欧文明に同化し、法律をも制定して行政・司法の制度をととのえ、独自の憲法までもっていた――が、銃剣を突きつけられて立ち退きをせまられ、長い旅路に発った。道中、肺炎、天然痘、はしか、マラリア、コレラなどの疫病や、不衛生な環境、それに食料不足などが原因となって約三分の一の人命が失われたという。これら一連の「涙の旅路」をきらって、アストランに逃げこむインディオも少なくなかった。我がアストランは彼らを受けいれ、アメリカにさらに貸しをつくった。
 一八四八年、アメリカは武力によりメヒコ国からカリフォルニアとヌエボ・メヒコを割譲させた。アメリカは一八〇三年にも、それまではフランス領であったミシシッピー川以西のとほうもなく広大な大地をナポレオンから買っている。それ以前のアメリカの領土は、フロリダをのぞくミシシッピー川以東の一帯だけだった。そのフロリダも一八一九年、エスパーニャから購入した。そこへカリフォルニアとヌエボ・メヒコがさらに加わって、アメリカはさぞかし狂喜乱舞したことであろう。カリフォルニアとヌエボ・メヒコはのちに、カリフォルニア、ネバダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコなどの諸州に分割された。この結果、我がアストランは、メヒコ湾に面した南をのぞいて、三方をアメリカにとり囲まれることとなった。

サイト「歴史 年代ゴロ合わせ暗記」より引用(アストラン共和国となっているところは原本では「1845年テキサス共和国を併合」となっているのを改変)

 アストランはアメリカにとって、喉につき刺さった小骨であってはならなかった。アストランは、流入インディオ、黒人逃亡奴隷、不法入植者などの問題でアメリカにはだいぶ貸しをつくっていたが、それに加えて、アメリカの産業行政施策にも積極的に対応した。アメリカの資本も続々と受けいれた。当時のアメリカは、北部と南部とでは産業の構造がまったく異なっていたが、黒人奴隷の労働力搾取のうえに成り立つ南部の大規模プランテーションは、アストランが奴隷制を禁じていたせいでもともと入ってきていなかったため、北部の鉱工業の資本と技術が流入した。蒸気機関を用いた製鉄工場や工作機械工場、紡績工場などが次々に建設され、多くの賃金労働者が誕生した。工場の内部や公衆が集まるところには鯨油(のちには石炭ガス)のガス灯がともった。馬車の往来する道路は次々に拡張整備され、必要があれば新たに建設された。アメリカとの国境はあってないにひとしく、そこを行き来する人々に国境を越えるという意識はなかった。物資もひっきりなしに行きかい、関税もなかった。一八九三年には、アストランを横ぎって北米大陸を横断する長距離鉄道も開通した。
 一九〇一年、アストランの首都であるテハスの北東部で石油が大噴出した。もともとテハスの郊外では、一八〇〇年代なかばころから油田が見つかっており、掘削と精製がはじまっていたのだが、その事業が一段と加速されることとなった。その後も各地で油田が見つかり、アストランは一躍石油王国となった。アストランは大いにうるおったが、石油事業それ自体はアメリカ人実業家の手中にあった。やがて自動車というものが登場して舗装された道路を走りまわり、そのうち、何と飛行機なんてものが現れて空を翔(かけ)るようになった。
 かくのごとくに、アメリカの資本によって新しい産業がいくつも運営されてきている我がアストランは、それでもなお、独立国といいうるのであろうか。アストランはもはや、アメリカの属国となってしまったのであろうか。
 いや、ちがう。アストランは確かに、産業・経済においてはアメリカと一身同体ではあるが、自治権はがんとしてまもっている。国の尊厳をおびやかす干渉に対しては断固たる態度をとる。アストランとはしいていえば、完全に独立して合衆国には属さない主権国家ではあるが、事実上のあり様はアメリカの一州に準ずる国家形態だといってもよい。
 それでいいのか?
 いいのだと思う。我がアストラン国の始祖、ケツァルコアトル一世は、モクテスマ王の遺志をひきついで、メシカ人祖霊の地に国のいしずえをきずかれた。本当にそこがメシカ人祖霊の地であったのかどうかはわからない。だが、そういうことはどうでもいいことだ。一世はまた、メシカ人の国、ひいてはインディオの国を建てることを念願とされた。そうして創建されるにいたった国の民が、みな純血のインディオであるというわけにはいかなかったが、それもまたどうでもいいことだ。純血であろうとなかろうと、インディオの誇りをもっている者がインディオなのだ。その彼らの、その彼らによる、その彼らのための国がアストランなのだ。
 もちろんこれは、どこかの大統領が述べた言葉のうけうりである。その大統領を生んだ国と、それ以前にはメヒコ、さらにその前にはエスパーニャという大国との対応に、ケツァルコアトル一族は代々、その神経をすり減らしてきた。無謀な抵抗はさけて相手の意にそうことを国益へと転じ、どんな強風のもとでもしなやかに成長する葦のごとくにこの国をみちびいて、アストランに住むインディオたちにその尊厳と誇りを失わせることはなかった。ケツァルコアトルの理想境にはほど遠いのかもしれないけれど、モクテスマ王、そしてティソク王もそれをよしとしてくれるのではなかろうか。
 とはいえ、それでいい気になって、安逸のときをむさぼっていくことは許されないであろう。国というものは、その置かれている地政的な条件によって、その存続発展の形態にいろいろ差異を生ずるものである。アストランはたまたま、アメリカという大国に三方をとり囲まれ、その地政的条件にそって、アメリカの傘のもとにその生存の方向を見定めてきた。アメリカがそうするにたる条件をそなえた国であることは確かである。しかし、そうするに値する国であるかどうかはまた別問題だ。かりにアメリカが、世界の人心にさからう方向に歴史の流れを誘導しようとすれば、アメリカの統率力はいつかは破綻して、アメリカは暴発し、アメリカを盟主とする同盟国と、アメリカに敵対する連合国とのあいだで戦争が起こるかもしれない。一九一四年と一九三九年の二度にわたって勃発した世界大戦は、それまで負の遺産として継承されてきたヨーロッパ諸国間の地政的な軋轢や、持てる国と持たざる国とでの富の遍在などが原因となったが、これからの時代、大戦が勃発するとすれば、それは、世界の人心にさからうアメリカ対世界という構図でそのきしみに火がつくのかもしれない。
 現にアメリカは、第二次世界大戦において、もはや勝利の確定していた一九四五年八月に、すでに虫の息の敵国に対して、やる必要もない人類史上最悪の大量虐殺を行った。それは、モルモットに対してさえためらうほかない常軌を逸した科学上の人体実験でもあった。敵国とはいうまでもなく日本であり、常軌を逸した科学上の人体実験とは、広島と長崎に二度にわたって投下された原爆である。それは、二つの都市を瞬時に溶融しつくす焦熱地獄によって一般市民の身体を焼くるより以前に蒸発せしめ、炭と見まごう焼け残りをるいるいとうっちゃかしにしたばかりでなく、生き残った者たちには肉の溶岩流――ケロイドの焼けただれ痕をいやしがたく刻み込み、さらには放射能による後遺症によっても無辜の老若男女をいたずらに苦しめ、あげくは死にいたらしめた。
 核を兵器にしてはならない。殺戮と破壊の手段としてはならない。それは人が犯す神の過ちである。神なき神の世界で人が犯す神の過ちである。
 ときのアストラン大統領ケツァルコアトル十七世は、同じモンゴロイドの国の人民に対してなされたこの実験を知ったとき、アメリカを無二の友邦と信じることをすら恥じた。猛烈なる抗議をアメリカに申しいれ、向こう十年間の国交断絶を宣言した。ここにいうアメリカとは、あくまでも同国の為政者ならびにそのとりまき連のことであって、一般国民をふくめるものでは決してなかった。この断絶宣言は、民間レベルにまで適用されるものではなかった。
 我がアストランは、アメリカとの運命共同体にまで没入すべきではない。アストランは、アストラン自身の意志で独立したのであり、その意志はアメリカのものではない。アメリカが世界に背を向け、自国第一主義へとおちいりすぎるならば、アストランはアメリカとはたもとを分かつほかない秋(とき)がくるのかもしれない。世界と決別するわけにはいかないのだ。
 一九五六年、つまり今年のことであるが、我がアストランは、晴れて国際連合の仲間入りをはたした。それまでは、常任理事国のアメリカの反対にあって加盟が見送られていたのだが、国交断絶の十年間が経過した前年、アストランとアメリカとの国交回復がなってアメリカ側もおれたのである。この年には、ほかに三カ国の国連加盟が承認されたが、そのなかにはあの日本もふくまれていた。ケツァルコアトル十七世はひじょうに熱心な仏教徒であり、日本にも一度訪問されたことがある。
 宗教といえば、我がアストランには国教と呼ぶべきものは存在しない。伝統的にカトリックがもっとも多いが、プロテスタントだって大勢いる。あらゆる国や州からの移民をわけへだてなく受けいれてきたアストランには、そのほかにも、イスラム教、仏教、ユダヤ教、ヒンズー教、ラマ教、ブードゥー教、モルモン教、儒教、神道など、あらゆる宗教の信者がいる。これだけの異宗教が乱立すると、異宗間の確執も起こりようがない。無宗教の者、宗教を否定する者だってたくさんいる。またインディオ古来の神々を守りとおしている人たちも少なからずいる。まさに神なき神の世界の理想郷である。ちなみに、アストランで用いられている主要言語はエスパーニャ語と英語である。主食はトルティーリャとタマルで古来と変わらない。ビーフステーキも食べるが、それは決して日本のワラジのようではない。
 アストラン人のいまの最大の関心事は、八年後の一九六四年開催のオリンピコの誘致である。対立候補である日本とは激しくしのぎをけずっている。いまのところ、日本のほうがややリードしているとの下馬評であるが、はて、いかなる結果にあいなることやら。


      了

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